施浴とは

 貧しい人々や病に苦しむ人々に温浴を施すこと。現代風に言えば浴場提供と入浴介助です。佛教の隆盛に伴い奈良の大寺院には施浴のための蒸風呂が造られました。湯船を増設し大湯屋とした寺院もあります。
 光明皇后の千人施浴あるいは行基菩薩や弘法大師の温泉開湯伝説は温浴の効用とともに伝えられ、平安末期から鎌倉にかけては重源、叡尊、忍性、一遍といった高僧が施浴を行い、また源頼朝も百人百日間の後白河法皇追福施浴を行ったとの記録が残っています。こうして明治初期まで寺社の浴室湯屋では宗派を問わず月一回から数回、佛教としての施浴が行われていました。
行基(668年 - 749年)
薬師寺の二代官主。東大寺大仏建立の勧進。橋や溜池、窮民の無料宿泊所など日本各地において社会事業・慈善事業を行った。草津、野沢、湯田中、渋、山代、山中、有馬など行基開湯の伝説をもつ温泉は全国各地に及ぶ。
俊乗房重源(1121年 - 1206年)
東大寺大勧進として、源平の争乱で焼失した東大寺の復興を果たす。東大寺大湯屋を再建し湯釜を作った。
叡尊(1201年 - 1290年)
西大寺中興の祖。囚人への斎戒沐浴、貧民への施粥、施茶などの社会福祉事業が知られる。弟子に忍性、信空、厳貞など。
厳貞(生没年未詳)
長岳寺・海竜王寺に住す。獄舎の囚人に食を施し、施浴を給して垢(あか)すり供養を行う。
忍性(1217年 - 1303年)
奈良に癩者などの保護・救済をする宿泊所として北山十八間戸、鎌倉極楽寺に療病院・悲田院・福田院・癩宿を設置、四天王寺の悲田院・敬田院を再興。伽藍83所、架橋189所などのほか浴室・病屋も築造。
覚一房覚阿(生没年未詳)
泉涌寺の僧。嘉元2年(1304年)の後深草院の追善に、京都の非人に非人施行、温室を設けて非人垢すり供養を行う。禅僧の覚阿とは別人。
 
光明皇后の施浴伝説とは

 聖武天皇の皇后である藤原光明子は天空からの啓示により「我自ら千人の垢を去らん」と施浴発願、結願となる千人目の皮膚病患者に乞われ膿を吸い出したところ、患者は黄金の光を放ち「我はあしゅく如来の化身なり」と言い残して消え去ったという説話が元亨釈書や東大寺絵巻などで伝えられたものです。
 藤原不比等の三女でもある光明子は佛教に帰依し氏寺の興福寺に施薬院や悲田院を設立、また相続した邸宅を皇后宮職としたのち喜捨し、総国分尼寺として法華寺を創建しました。法華寺には縁の浴室(からふろ)」があり、重要有形民俗文化財となっています。
東大寺大湯屋
建久8年(1197年)に重源により再建。1239年に俊乗が再建、1408年に惣深が修復したが湯釜は1197年当時のもの。鉄湯船は1282年に造られたとされる現存する最古の浴槽で湯釜で沸かした湯を浴槽(2,000〜3,000リットル)に給湯。
内部の鉄湯船とともに重要文化財。
法華寺浴室
現在の建物は明和3年(1766年)の再建。現在も使用できる状態に整備されてる。重要有形民俗文化財。
興福寺大湯屋
奈良時代の創建とされるが、文献初見は平安時代。その後数回の被災・再建を経て、現在の建物は五重塔再建と同じ応永33年(1426)頃に再建されたとみられる。重要文化財。
法隆寺大湯屋
慶長10年(1605年)に建てられた建物。重要文化財。
酬恩庵一休寺 (京田辺市)
慶安3年(1650年)、方丈再建の時に改築。重要文化財。
宝菩提院廃寺湯屋跡 (向日市)
西暦680年頃に建てられた白鳳時代の寺院跡。湯屋は平安時代前期、西暦900年前後のもの。

阿弥陀寺湯屋 (防府市)
重源が施浴のため創建。建久8年(1197年)造の国宝「鉄宝塔」に存在が記されている。石製湯舟であるが鉄湯釜、鉄湯舟残欠が保存され附指定されている。
 
デイ銭湯とは

 障害や病気のある人々に午前中や昼間の営業時間外の銭湯で温浴を提供する施設型福祉事業です。厚生省の後押しもあり高齢者を対象としたデイ銭湯として普及しました。介護保険事業でないため施行後は減ってはいるものの現在も各地で自治体や公益法人の助成によりボランティアで行われています。
 東山区で生まれた青少年対象のデイ銭湯は、当時、障害のあるこどもの入浴を受け入れられる施設がなかったことがきっかけとなり、少子化社会での子育てのセーフティネットとして一九九九年に始まりました。以来十余年、無私のボランティアに支えられ続けています。
  明智風呂とは

 禅宗寺院において浴堂(浴室)は七堂伽藍の一つとして重要な建物となっています。京都市右京区の妙心寺には、重要文化財の浴室「明智風呂」があります。光秀の叔父ともいわれる密宗和尚が光秀の菩提を弔うために建立、昭和2年まで使われていました。開浴を知らせるための鐘楼は、春日局が母の菩提を弔うため寄進したものでしたが昭和37年に焼失してしまいました。春日局は斎藤ふくといい、父の斎藤利三は明智光秀の筆頭家老でしたが、本能寺の変ののち捕えられ六条河原で斬首されています。
 創建時は小規模なものでしたが江戸時代1656年に寄進により現在の建物が建てられ、当初は光秀の命日である13日に、塔頭の増加などにより四と九のつく日に開浴されていました。また、故人の追善供養として薪の寄進にる施浴が行われていました。
泉涌寺浴室
明治30年(1897年)現在地へ移築されたが、寛文期(1661〜1773年)再建の建物。
東福寺浴室
妙心寺の浴室よりも古く、室町時代の建物とされる。重要文化財。
妙心寺浴室
線香が一本なくなるまでが一人の使用時間とされ、その間に茶碗に3杯のお湯が渡された。天正15年(1587年)の創建だが現在の建物は明暦2年(1656)再建。
相国寺浴室
1400年頃創建、慶長初年(1596年)再建。十六菩薩が施浴を受けたときに自己と水が一如であることを悟った跋陀婆羅菩薩が「妙觸宣明、成仏子住」と言ったことから宣明(せんみょう)ともいい跋陀婆羅菩薩を祀る。重文。
建仁寺浴室
四と九のつく日に開浴。浴室では身分の上下なく、僧も町衆も籌(チュウ)という細い竹の棒を配られ、鐘と板木と太鼓の音を合図に順番に入浴したという。
法然院講堂
もとは元禄7年(1694)創建の大浴室で13日と21日に施浴していた。建物のみ残存。
本願寺浴室
天正19年(1591)、豊臣秀吉の寄進により大坂天満から移転。重文。
 
佛説温室洗浴衆僧経とは

 耆婆扁鵲(ぎばへんじゃく)とは名医の例えです。出家の温浴を願う耆婆(耆域)の求めに応じた釈尊が、温浴すれば出家は七病を除去し七福を得られ、ゆえに出家に温浴を施す者は清浄の福が得られ仏となることもできると説いた経典です。
 大乗佛教が興ると、施浴にも、他者に対する慈悲を重視する利他行の側面が加わります。のちには日本の祖霊信仰と習合し追善追福の供養風呂という形態も生まれました。
 現在、春日・大黒・薬師・稲荷・蛭子・地蔵・弁天といった神仏の名を冠した銭湯・温泉が多いのは寺社施浴の名残ともいえま
す。
施浴のすゝめ

 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば人は万人みな同じ位にて生まれながら上下の別なく自由自在なり。今この義を拡めて言わん。銭湯は万人裸にて人の上下の別なく湯に浮かべば身体は自由自在、いわんや施浴は利用者にも施浴者にも等しく心身に温浴の効果あらむ。

 施浴で心も体も美しく。効果のほどはあなた次第。 青少年デイ銭湯は原則第四土曜日午前に春日湯にて。ただし二の付く月は休業です。同性介助のため男女とも施浴者が必要で随時募集しております。

  ボランティア応募  よくある質問
学問のすゝめとは

 「学問のすゝめ」を改めて読みました。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」という冒頭の掴みが独り歩きしている福澤諭吉の著作で全17編からなり明治5年(1872年)から明治9年(1876年)にかけて刊行されてたものです。佳境ともいえる十五編には、日本と西洋には別の風俗習慣があり、どちらも一長一短なので信疑を見定めて取捨すべきと論じる中で、口を開けば西洋文明を賛美し、なんでもかんでも西洋に倣おうとする学者を"開化先生"と揶揄し、日本と西洋の風俗習慣を"入れ替えて"開化先生をこき下ろす文節がありますが、その筆頭にあげられた風俗習慣は日々の浴湯でした。
仮りに今、東西の風俗習慣を交易して開化先生の評論に付し、その評論の言葉を想像してこれを記さん。西洋人は日に浴湯して日本人の浴湯は一月わずかに一、二次ならば、開化先生これを評して言わん、「文明開化の人民はよく浴湯して皮膚の蒸発を促しもって衛生の法を守れども、不文の日本人はすなわちこの理を知らず」と。(十五編 事物を疑いて取捨を断ずること )

 拙なるものですが現代語訳をしてみました。
"仮りに今、東洋と西洋の風俗習慣を交換して開化先生に評論してもらうとして、その評論の言葉を想像して以下に書きます。西洋人は毎日のように浴湯しますが日本人が浴湯するのはひと月にわずか1回か2回なので、開化先生ならこれを評して言うでしょう、「文明開化の人民はよく浴湯して皮膚の蒸発を促すことで衛生という社会の規範を守りますが、文明を知らない日本人は衛生という観念がどれだけ社会に必要かということすら知りません」と。"
 なお、この当時は内風呂をもつ家は僅かで、多くの日本人にとって浴湯とは、銭湯、温泉、庭先での行水、または施浴でした。

 ところで、端書として出版のいきさつが書かれています。

このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺り、同志の一覧に供うるなり。 明治四年未十二月
 
 初編の執筆は明治4年(1871年)。同年に廃藩置県が断行されていたため、九編、十編には"中津の旧友に贈る" と表題した廃藩置県後の藩士を気遣った文章もあります。また同年にはいわゆる社寺領上知令も出ています。神仏判然令により神社と仏教寺院が分離させられたのは改元の年(1868年)ですから寺院の打撃は相当なものだったでしょう。


京都の僧侶と社会事業

 しかしそういった逆風の中で、京都府の明石博高(後述)と、社会事業に寺院・僧侶の活路を求めた与謝野礼厳(後述)、東山天華(永観堂禅林寺)、伊藤貫宗(鹿苑寺-金閣寺)、佐佐間雲巖(慈照寺-銀閣寺)らの僧侶が京都府療病院・医学校の開設に奔走し、明治5年(1872年)に青蓮院内に療病院、明治12年(1879年)に医学校が開設されます。
 また明治8年(1875年)には東山天華の尽力で日本最初の公立精神病院である癲狂院が創設されました。同年の2回目の上知令で、社寺の境内墓地以外の山林田畑などすべてが国有化され、財政基盤を失った寺院は困窮し、僧侶の社会事業も潰えるのですが、彼らが作った療病院と医学校は明治13年(1880年)に現在地に移り、京都府立病院および京都府立医科大学として、また癲狂院は明治15年(1882年)に私立京都癲狂院ととなり永観堂に移転、のちに川越病院となり現在にいたっています。

 与謝野礼厳は与謝野寛(鉄幹)の父で、岡崎願成寺の住職でしたが上知令以降も寺院経営を顧みることなく精力的に社会事業を続けたため、負債により明治12年に堂宇地所は競売されました。跡地は戦後京都市立岡崎中学校の敷地となりましたが、校庭には今も与謝野寛の生地である願成寺の楠が残っています。
 長州藩の藩医の家に生まれた明石博高は医師のかたわら大阪の舎密局で化学を学び、京都府に招聘されるまでは各地の温泉分析も行っていました。衛生はもとより温泉成分の効用にも注目し、明治6年(1873年)、円山の安養寺の塔頭であった多蔵庵春阿弥に鉱泉を利用した吉水温泉を開業します。近代銭湯の草分けである吉水温泉は明治39年(1906年)に焼失し再建されることはありませんでしたが、西木屋町にも京華温泉を開業し、経営は変わったものの、明石湯という名称で銭湯として近年まで続いていました。京都には西木屋町の明石湯のほかにも明石湯を称する銭湯がいくつかあり、明石博高や京華温泉との関わりをもつ銭湯であったようですが、数年前に最後の明石湯も廃業されました。

 明治初期における僧侶の社会事業への情熱を考えると、寺社での施浴が無くなっていった原因は、燃料となる薪の確保が困難になったという経済的要因がもっとも大きかったように思われます。2度の上知令がなければ各寺院の施浴も続いていたのではないでしょうか。



         外部リンク
          京都府立大学沿革 https://www.kpu-m.ac.jp/doc/about/history/history.html
          京都府立医科大学療病院碑 http://www.f.kpu-m.ac.jp/k/jkpum/ryoubyouin/byouinhi.htm
          川越病院 歴史 http://business2.plala.or.jp/kawagoe/enkaku/hosoku.htm
2016/4/4アップロード 2016/5/13補訂 2017/4/11補訂
2017/5/11明智風呂視察により5/20補訂
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