とっぷぺーじへ
とっぷぺーじへ
施浴とは

 施浴とは貧しい人々や病に苦しむ人々に温浴を施すこと。湯施行とも呼び大乗仏教においては利他行、六波羅蜜の布施のひとつです。入浴支援そのものについては垢すり供養ともいいました。
 広義の施浴には供養風呂と寺湯が含まれます。供養風呂とは命日に施主が薪代を寄進して湯屋浴室を開放すること、寺湯は寺社が信徒や領民のために建てた湯屋で町湯とならぶ銭湯の源流となりました。明治維新による神仏判然令や社寺領上知令により寺院の経済基盤が弱体化し社会的困窮者の入浴支援としての施浴はおこなわれなくなりましたが、供養風呂や寺湯は今でも見ることができます。
 釈迦の時代のインドで始まった施浴は出家僧に温浴を施すことでしたが、500年後の紀元前後に自利行と利他行のバランスを特に他者に対する慈悲を重視する大乗佛教が興り、さらに500年後佛教が日本に伝来、大和の大寺には浴室(蒸風呂)が造られるとともに施浴も行われていたと考えられています。平安末期から鎌倉にかけては重源、叡尊、忍性、一遍といった高僧が施浴を行い、また源頼朝も百人百日間の後白河法皇追福施浴を行ったとの記録が残っています。その後明治初期まで寺社の浴室湯屋では宗派を問わず月一回から数回の施浴が行われていたようです。春日・大黒・薬師・稲荷・蛭子・地蔵・弁天といった神仏の名を冠した銭湯や温泉が多いのは寺社施浴の名残りなのでしょう。


施浴のすゝめ

 耆婆扁鵲とは名医の例え。佛説温室洗浴衆僧経では出家僧の温浴を願う耆婆に応えるかたちで釈迦は「温浴すれば出家は七病を除去し七福を得られ、ゆえに出家に温浴を施す者は清浄の福が得られ仏となることもできる」と説きました。東アジアを経て飛鳥時代に大乗佛教が伝来、法華寺の光明皇后の千人施浴や、行基菩薩や弘法大師の温泉開湯伝説が生まれました。光明皇后とともに垢すりをした三人の典侍(すけ)が「三助」の由来になったという説があります。
 現在、六波羅密寺にほど近い大黒湯で共同募金の浄財によりデイ銭湯が行われています。自利と利他のバランスは佛教のみならず現代の倫理にも通じるものです。
 ところで、福澤諭吉は「学問のすゝめ」で盲目的欧米信奉者を開化先生と名付けわざと日本人と西洋人を"入れ替え"て「西洋人は日に浴湯(ゆあみ)して日本人の浴湯は一月わずかに一、二次ならば、開化先生これを評して言わん、文明開化の人民はよく浴湯して皮膚の蒸発を促しもって衛生の法を守れども、不文の日本人はすなわちこの理を知らず」と揶揄し、日本の習俗の長所として浴湯を挙げました。そこで…
 福澤翁の学問のすゝめに倣いて言わん。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば万人みな上下の別なく自由自在なり。銭湯は万人裸にて人の上下の別なく湯に浮かべば身体は自由自在、浴湯は皮膚の衛生を促し、広広たる浴室は万人に安静の脳波を生ぜしめるなり。畢竟浴室にあれば温浴を受ける者にも三典(三助)にも同様に温浴の効果あらん。更にサンスケは清浄の福を得と言えり。施浴の効用いかばかりあらんや。


冊子 施浴のすゝめ

 施浴の普及を目的として2016年に冊子「施浴のすゝめ」を刊行配付しました。本篇のほか資料篇、外篇もついた最新版をWEBで読むことができます。→冊子「施浴のすゝめ」





Copyright (C) 2020 YUYUYOU. All Rights Reserved.